清水エスパルスの低迷、そして復活
2009年10月 2日
勝ち点差17からの逆転優勝を狙う清水エスパルスだが、ほんの数年前には降格候補の常連という酷い状況にあった。
清水エスパルスは、今も語り草となっているジュビロ磐田とのチャンピオンシップ(1999年)に敗北して以後急速にチームの力を失い、翌2000年の2ndステージで13位と、優勝争いからたった1年でチーム発足以来最悪のシーズンを迎えてしまった。2001年こそ両ステージを4位で終えることができたが、その後は12位、11位、14位など厳しい順位でステージを終えることが増え、1ステージ制が導入された2005年には最終節まで残留を争い、ギリギリの15位でシーズンを終えるというドン底の状況にまで落ちてしまった。
この低迷の理由の一因だったのが、ユース偏重のチーム構成と、混迷を極めたフロント・監督人事だ。当時のチームは毎年のように大量の昇格選手をトップチームに迎え入れていたが、安定して活躍する選手は数少なかった。そこで外部から選手を獲得することが急務だったのだが、スカウティングを軽視していたこともあり、すぐには思うような選手獲得には至らなかった。2004年にはアントニーニョ監督と石崎コーチが対立し、チーム体制が2分されるという異常事態も発生した。またチームOBで非常勤取締役だった堀池氏が仲違いから退団するというトラブルも発生した。こうしてまさにチームは八方塞りの危機的状況にまで陥ってしまったのだった。
そんな状況を救った立役者が、現グランパスGMの久米氏と、現清水監督の長谷川健太氏だ。久米氏は清水のGMに就任すると、まずはスカウティングの強化に奔走した。チームOBである興津氏を選手の親を口説き落とす「マダムキラー」として育て、また選手とその周囲に誠意を尽くすことで、若手選手を預けてもらえるようなチームの環境を作った。同時に選手を見極める目をスカウティングチームに教え込んだ。現在の清水を支える兵働、岡崎、青山、岩下、枝村、平岡が2005年に新人として一斉に入団していることを考えると、驚異的なスカウティング能力といえるだろう。この2005年の新入団選手に関しては、メンタリティを重視しほとんどの選手がキャプテン経験者だったことも見逃せない。ちなみに現在ボルフスブルクで活躍するグラフィッチの獲得を目指したこともある(ただしこれはアントニーニョ監督の要望だったらしい)。
またもう1人の立役者である長谷川監督だが、実は監督に就任したのは完全な玉突き人事であり、本人も、そしてチームさえもこのタイミングで清水の監督になるとは思っていなかったようだ。というのも、当時の長谷川監督の指導経験は大学監督のみであり、Jリーグの監督も、あまつさえコーチでさえ未経験。たとえS級コーチ保持者とはいえ、崖っぷちにあるチームを任せるにはあまりにもバクチである。
しかし結果としてこの人事は大成功を収める。清水愛に溢れる長谷川監督は、暖かくも厳しい指導で選手を徹底的に鍛え上げ、夏場以降に走り勝てるチームを作り上げた。その上で人身掌握術にも長けており、藤本が入団のきっかけとして語る「練習へのテスト参加でもお客さん扱いのようなことがなく、むしろ『やる気がないなら帰れ』と1人の戦力として厳しく叱責されたことが、ここで成長したいという想いにつながった」という逸話はサポーターの間でも有名な話だ。
長谷川監督も初年度こそ残留争いを演じてしまったが、以降は毎年上位でシーズンを終えており、ついに今季は優勝を狙えるまでに成長した。チームの特徴は、夏以降にめっぽう強いこと。春こそ戦術や連携に未完成な部分が目立つが、成熟の進む夏以降にはチームとして歯車が回り始め、圧倒的な力を発揮しはじめる。サポーターはこの成熟する時期が早まれば優勝も狙えると考えていたが、今季はついにその時が来たと言えそうだ。
こうして清水は、紆余曲折ありながらもチーム力の復活と世代交代を成功させることができた。残すところはシルバーコレクターの汚名を返上すべく、優勝を成し遂げることである。果たしてサポーターの悲願は達成されるのだろうか。
(中山記男)


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