鄭大世の前のJリーガー
2010年6月15日
川崎フロンターレに所属する北朝鮮代表・鄭大世(チョン・テセ)。5月25日、北朝鮮対ギリシャのテストマッチでも2得点をあげた怪物FWだが、彼のウィキペディアのプロフィールには、このような文章が書かれていた。
<愛知朝鮮第二初級学校(日本の小学校に相当)4年生の時にサッカーを始める。朝鮮大学校体育学部に在籍し、蹴球部所属時には東京都大学サッカーリーグ下部でプレーする傍ら、サッカー代理人契約を結んだ田邊伸明の紹介を受け、プロ入りを目指してJリーグの数チームで練習生として参加。川崎フロンターレの練習に参加した際の、専修大学との練習試合で挙げた5得点などが評価され、卒業後の2006年に川崎フロンターレに入団した(同大学から直接Jリーグへ進んだのは鄭が初めてである)>
誰が書いたのかは分からないが、「同大学から直接Jリーグへ進んだのは鄭が初めてである」という記述は、うまくまとまっている。朝鮮大学校を卒業して、Jリーガーになったのはチョン・テセが初めてではないが、「同大学から直接」Jリーガーになったのは、たしかにチョン・テセだからだ。
つまり、朝鮮大学校を卒業後、紆余曲折を経てプロになった選手がいる。水戸ホーリーホックのサポーターは、黄学淳(ファン・ハッスン)という左サイドの技巧派MFを覚えているだろうか。彼は朝鮮大学校を卒業後、一度教師になり、2年後プロへの道を模索。水戸ホーリーホックに入団した。
【なんで卒業時には、強い気持ちがなかったんだろう?】
ファン・ハッスンは、水戸ホーリーホックに2年間在籍、その後、JFLのYKKAPサッカー部(現カターレ富山)で5年間プレーした。アマチュアとして関東サッカーリーグのFCコリアでもプレーしたが、すでに引退。現在は、一般社員として働きながら、母校・埼玉朝鮮中学校で、サッカーを教えている。
【CAP】写真中央がファン・ハッスン
「引退して時間がたつから、動けなくなってきているね」と笑いながら話すファン・ハッスンは、1976年生まれの33歳。チョン・テセより7つ年上だ。朝鮮大学校を卒業したのは1999年。その当時は、「プロになりたい」という夢があったが、「どうすれば良いのか?」、「どう努力すれば良いのか?」、まったく分からなかった。
「大学時代は東京都3部リーグで試合をしていたし、プロになるなんて、現実的な感じがしなかった。テストをどう受ければ良いのかも分からなかったし…。それにサッカーを教えるのも好きだったから、教員になるのも嫌じゃなかったんだ」
しかし大宮にある埼玉朝鮮学校で、教師として2年働いた後、ファン・ハッスンはその職を辞める。「プロのサッカー選手になりたい」と決意したからだ。当時24歳。「プロになる人」よりも、「プロを辞める人」が多くなる年齢だ。当然、周囲からは「なぜ辞めるのか?」と大反対された。
「もう言われすぎて覚えていない(笑)。『何を考えているんだ?』とか『どうしたんだ、お前?』とか…。けど、自分の考えは曲げられなかった。『プロになる』っていうよりも『やって後悔するんだ』って感じ。なぜそこまで強い決心があったのか、正直分からない。本当に、なんで朝鮮大学校を卒業するとき、そういう固い気持ちが持てなかったんだろう?」
【「夢がかなった」っていう感じじゃない】
2001年4月、教員を辞めたファン・ハッスンは、まず、関東リーグの「神奈川教員サッカークラブ」で練習した。
「すごく良いチームだし、良い選手がいた。正直、『関東リーグってこんなに上手いのか』って思ったくらい。けど、なんというか、ピンとこなかった。ここでやるんだったら、辞めた意味がないって」
すると今度は、茨城朝鮮学校の職員の中に、水戸ホーリーホックにツテのある人を見つけ出した。
「練習だったらいつ来ても良いって言われたときには、飛びついた。それで、5月から水戸ホーリーホックの練習生に。けど、1週間でコーチにこう言われた。『今、結論をだそうか。今出すのならNOだ』って。ただ、『もうちょっとやりたかったら、一緒に練習して良い』って言われたから、そのまま1ヶ月。もう、仕事しないで練習するだけ(笑)」
その頃、水戸ホーリーホックにはアン・ソンジンとシン・ビョンホという二人の韓国人選手が、契約を前提に練習をしていた。通訳のいない水戸ホーリーホック、取材時には韓国語の通訳も行っていた。
「正直、情けないなって思ったけど、その後、プロ契約の話が来た。6月、ある日の練習後、監督の小林寛さんが『お前、取ってやるよ』って。もう、すぐにハンコを取ってきて契約(笑)。その直後には試合にも出た」
2001年6月17日、サガン鳥栖対水戸ホーリーホック戦で、ファン・ハッスンはプロデビューする。
「90分間試合に出たけど、最後の10分は覚えていない。2年間のブランクがあったからかな。けど、鳥栖のスタジアムの雰囲気が凄かったのを覚えている。観客数は3000人くらいだったと思うけど、観客との距離が近くて、圧力があった。それに興奮していた」
夢がかなった瞬間だろうか?
「いや、そういう感じじゃなかった。なんだろう。水戸の練習に参加したら、意外とできるかもって思えたし。ただ、急に運が良くなった気はした。もしかしたら、そういう瞬間、『夢がかなった』っていう瞬間は最後までなかったのかもしれない。けど、大宮アルディージャと試合をしたときはちょっと特別だった。学生と父兄が見にきてくれたときには、『間違っていなかった』って思えた」
しかしプロ3年目。水戸ホーリーホックが外国人選手との契約を増やしたため、ファン・ハッスンはレンタルでJFLのYKKAPサッカー部に移籍する。日本の学校を卒業していなかったため、日本の高校、大学を卒業した選手を一人までは「外国籍扱いしない選手」とする「在日枠」に入らなかったのだ。
「外国人助っ人と同じ扱いだったからね。本当、こんな状態になるなんて、夢にも思わなかった。ただ、在日枠とか、そういうことを考えていたら、プロになれなかったんじゃないかな。
YKKでの1年目はショックで立ち直れなかったけど。若くないし、試合経験を積ませる意味で出たわけじゃないからね」
しかし、そのYKKでファン・ハッスンは5年間プレー。3年目にはPKキッカーも務めた。
「2年目くらいに、辞めちゃおうと思ったけど、監督にそう言ったら『もうちょっとやろう』と言われてね」
YKKでプレーしながらB級ライセンスも取り、指導者への道を考え出したのもこの頃だ。2008年にYKKとアローズ北陸が合併すると、他のチームからの誘いも断った。
「辞めるのはこのタイミングかなって思った。今はサッカーを教えるのが本当に楽しい。子供たちとサッカーをやっていると、自然と笑顔になるよ」

【育てる人生の素晴らしさ】
アン・ヨンハやチョン・テセがJリーグで活躍して以降、朝鮮大学校から直接Jリーグに進む選手は増えた。ジュビロ磐田の黄誠秀(ファン・ソンス)、大分トリニータの姜成浩(カン・ソンホ)、京都サンガの金成勇(キム・ソンヨン)などがプレーしている。
「俺は、全然凄い選手じゃなかったけど、プロで活躍したり、代表になる選手には、『何かを黙々とやっている部分』があると思う。俺も一生懸命やっていたつもりだけど、何かが違う。トレーニングなのか、日常生活なのか。それは人それぞれだけど。
良い選手には、『人がやっていないときに、何かをやる』っていう時間が必ずあると思うし、そういうことを意識させるような言葉もかけたりしている。本当に何でも良い。シュート練習でも、攻守の切り替えを意識して早く帰ってくるとか。電車に乗るときに、カカトを上げておくとか(笑)。それを続ける。試合が終わった後のジョグでも、一試合フルで走れない子には、『自分だけ、ジョギングじゃなくて、少し速く走ってごらん。体力を詰めるチャンスだから』って言ってみたりする」
しかし、ファン・ハッスンはサッカーで成功する選手だけがすべてではないと続けた。
「誰かが代表選手になったり、プロになったら嬉しい。けど、それをメインで考えているわけじゃない。それだけを考えるのなら、強いクラブチームとかを指導すれば良い。俺にとって、目的は別にある。サッカーを通じて、何かがプラスになれば良い。『ラグビーでレギュラーになりました』でも、『起業家になりました』でも良い。サッカーを楽しんで、育って、その結果、勝てば嬉しいし、もちろん、プロの選手が出たら嬉しい。自分がプロになったときには『夢がかなった』って感じはしなかったけど、教えた選手がなったらそう思うかもしれないしね」
ファン・ハッスンの指導は学生から評判だし、実際、楽しそうに子供たちはサッカーをしている。紆余曲折を経て、プロになった人間だからこそ教えられる何かがあるのだろう。チョン・テセのようにワールドカップに出場し、華々しく活躍するサッカー人生も、もちろん素晴らしい。しかし、一度教師となった後、周囲から反対されながらもプロになり、引退後は子供たちに「楽しいサッカー」を教える人生も、決して悪いものではないと思う。
【文・取材 黄慈権】
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